2009年11月30日

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後  42

 昨日、兵庫県佐用郡佐用町で「佐用町復興フェスティバル」が開催さました。水害から4ヶ月を前にして、「ちょっとここらで一息つこうよ!」という主旨で開催されました。この日に合わせて、実は能登の穴水来迎寺に咲いていた珍しい「10月桜」の苗を購入し、佐用町の仮設住宅にお住まいの被災者が、いつもこの桜の前を歩いたら思い出して頂くようにということで仮設住宅の敷地に植樹をしました。

この植樹に合わせて、能登中島の小牧壮年団から3名、同じく能登の穴水の被災者Tさんはじめ新潟県中越地震および同県中越沖地震の被災者たち、そして関西圏のいろいろな大学からも大学生が応援に駆けつけ、また炭を持って鳥取県智頭町の森林組合の方も参加されました。佐用町からは町長や社会福祉協議会会長、そして佐用の被災者を代表して仮設住宅の会長さんらが参加して下さり、感動的な被災地つながりとなりました。参加者の全員が参加しての植樹祭では、BGMとして名古屋東海水害の被災者でもある胡弓奏者の石田音人さんが胡弓を演奏して下さいました。予期せぬお申し出で忘れられない一日となったことと思います。そして何よりも、仮設住宅の住民のみなさんと能登の被災者や中越・中越沖の被災者のみなさんとが自然に交流して下さっていたのが印象的でした。またおまけとして、阪神・淡路大震災で生まれ、新潟や能登や名古屋に広がった「まけないぞう」がいろいろなご当地タオル手芸品としての作品が各々の地から提供され、盛り上がりました。

私たちのような「災害救援ボランティア」の役割の一つに、こうした場づくりが大切だなぁと痛感した次第です。能登に咲く「10月桜」が、こうして縁をつなぐという役割をしてくれたのです。この10月桜の寄贈をしてくれた中には、能登半島地震で被災された寺院が集まってつくられた「災害支援ボランティア友の会」も入っておられます。まさにご縁をつなぐ役割を担われたのではないかと感謝しています。

2009年11月27日

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 41

間脇遺跡とイルカとのことについて少し触れてきましたが、静岡県清水区では10数年前ではスーパーでイルカの肉が販売されていたそうだ。イルカはこの清水港沖でも生息していたのだろう?そう言えば和歌山県太地町にもイルカはいたし、この地の鯨は有名だ。従って清水港沖にイルカが生息していても不思議ではない。こういうことに詳しい新田時也さん(東海大学海洋学部講師)は、伊豆地方の漁港である安良里の方から聞いた話として「戦後の食糧難の時代、イルカの肉が私たちの『いのち』をつないでくれる唯一の食べ物でした。イルカの油は、船のオイルに利用することで、生活の支えともなった。私たちはイルカに感謝し、供養塔を建ててまつています」と朝日新聞に紹介しておられる。同講師は、「食べることといのち、さらには「祈り」や「歴史」にまで、もう一度世界の人が考えて欲しい」と願っているようだ。

ところで能登は「ノット」というアイヌ語から来ていると伝えたが、アイヌでは「熊送り」という人間が熊と共存させていただき、熊の肉を食することから熊に対する畏敬の念を込めての儀式がある。能登とアイヌとのつながりからすると、能登でもイルカを葬る儀式もあったのかも知れない。
そういえば、食文化の違いで肉食がダメという外国人のために「ハラール料理」を用意するところが増えてきた。これは肉を料理をする前にお祈りし、その国の作法によって肉を捌き、完全に血抜きをしてから食すというということだったことを思い出した。よくイスラム教の方たちの食事を案内することがあるが、「豚肉を使っていないから大丈夫ですよ!」と説明するが、正確にはきちんとお祈りをしているかどうかがむしろ大切なことのようだ。

考えてみれば、日本でも食事の前に「いただきます。」と手を合わせて食すのは、「あなたのいのちをいただいて、私は生きています。」という感謝の意を込めての儀式であると聞いたことがある。

こうしていろいろなことを比較して見ると、食文化も共通するところが多いことに気づく。まだまだ能登の暮らしを調べてみる価値があるなぁ・・・・・・。
ワクワク!

2009年11月25日

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 40

(続:間脇遺跡について)
 間脇遺跡が約6000年前に発掘されたことはすでに書きましたが、第14次間脇遺跡発掘調査(1982年、83年)により、縄文時代前期初頭(約6000年前)から晩期終末(約2300年前)まで、約4000年間途切れることなく人々が住み続けていた集落遺跡と判明しているそうだ。

 さて、私たちが歴史を振り返るとき、今から何年前くらいのことなら、具体的なイメージを持ちつつ理解できるのだろうか?今から6000年前に始まり、約4000年間もの人の暮らしの足跡が遺跡から探ることができるというのは、想像しがたいことではないだろうか。

 でも人類は約600万年前に猿から進化してこの地球上に現れたと先日河合雅雄さん(県立人と自然の博物館名誉館長)が講演でおっしゃったが、少なくとも私たちの祖先であるモンゴロイドと同じルーツを持つ人たちが、12000年前にベーリング海峡を歩いてわたり、北米大陸を南下して、現在ネイティブアメリカンが居住している地に住み着いた。今もこの地にすむイロコイ族が存在しているということは、間脇と同じように途切れることなく住み続けてきたのかも知れない、12000年も。しかし、私はイロコイ族の住んでいるこの地に行ったことがないので、残念ながら実感を持って語ることができない。

 ところが、モンゴロイドはこうして北へ移動しただけではなく、どうも南にも移動したように思う。それを推測する材料としてインドネシア・スマトラ島南にニアス島という小さな小さな島があり、そこにびっくりするような事実がある。私は2005年3月に発生した地震で被害を受けたこのニアス島を訪れたとき、「あっ!」と言葉が出ないほど驚嘆したことがある。そこの島西部に住んでいる人たちは、私たちと全く同じ顔をしているのである。私が驚いたのは、モンゴル人はもちろん中国人や韓国人もよく似ているが、ほんとにニアスの人はそっくりなのです。この事実と出会ったことで、私の中では10000年でも超身近な事として捉えられる。

 話を能登に戻す。ところでそのモンゴロイドは、大陸から日本へは一番最初にどのようにして渡ってきたのだろうか?よくいわれる朝鮮半島を経てわたってきたのだろうか?能登半島の能登は「ノット(突きだしたもの)」というアイヌ語からきたという指摘もある。だとすると、モンゴロイドは一度シベリア半島に行き、そこから南下したとも考えられるのだろうか?いや、イロコイ族と同じ一族がベーリング海峡を渡らずに日本列島を南下したのかも知れない。しかし、少なくとも文献で証明されるのは700年代後半に大陸(現ロシア)に渤海国という国があり、そこから渤海使節団というのが風に吹かれて辿り着いたのが能登半島であることは間違いのない史実である。従って1300年前に遡って想像することは、10000年前に遡ることと比べると、まるで昨日のようなものかも知れない。しかも、渤海使節団がこの地に残した文化の一つかもしれない七尾市能登中島の二十日祭り(通称:お熊甲祭り)は今も現存しており、毎年9月20日に盛大な祭りを行う。この日は、普段の人口を上回る人たちが観光を兼ねて集まってくる。こうして歴史を彷彿とさせる伝統が残っていれば、1300年前でも具体的な実感を持って眺めることができる。

さて、私の関心事はこのお熊甲祭りと間脇遺跡のつながりはあるのだろうか?ということである。このことを知るのが、今後の私に課している能登通いの最大テーマである。11月28日(土)にそのお熊甲祭を担う集落の一つ小牧(おまき)地区壮年団から3名の方が来所され、今年の祭りの応援に行った神戸の大学生と交流会を持つ。場所は当センター会議室で、午後6時からである。縄文の暮らしをイメージする前に、祭り談義をする中で中島の人たちと交流しながらまず1300年前の暮らしをイメージしてみませんか?イルカを出すことはできませんが、七尾の名物「カキ」を持参してくれるそうです。会場が狭いので申し訳ないですが先着順です。必ずお電話を下さい。
     (被災地NGO恊働センター:078−574−0701)

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 39

(続:間脇遺跡について)
前号no38で、クリの木について書いたところ、私の尊敬するI・kという教授が、「クリは食糧としても重宝されていたのですよ!」とご指摘がありました。実は、能登半島地震後能登に通い続けていましたが、ここの間脇遺跡の存在を知らなかったのです。ある時にI教授に「村井くん、能登を語るには間脇遺跡を見ておかな語られへんで!」教えられ、尋ねたのです。

間脇遺跡縄文館には、縄文土器も土器も発掘されていますが、クリなどは柔らかくして食べるために土器がつくられたようです。なんとこの頃からこうして生活の知恵があったことに驚きです。また、縄文土器などと一緒に発見されているのがイルカの骨なのです。この頃の縄文人には、貴重な海の幸としてイルカを食していたことが判るそうです。昭和の初期までこのイルカ漁をしていたという、この地域の漁師さんの証言があるそうです。

そういえば、足湯ボランティアに行っている大学生の話では、能登半島の外海の側にはところどころ、鯨塚があると聞いたことがあるのですが、昔はこの辺りは潮の流れの関係で魚も豊富に生息していたかも知れません。そう言えば、七尾湾にある能登島の水族館で「イルカショー」をしていましたが、この縄文のイルカの物語とは全く関係ないようです。

昨年、新潟の友人にトチの木の種を貰ったので、当センターの庭に植えたのですが、どうも失敗したようで芽が出ません。トチの実も縄文時代の食料として食されていたようです。今年植えた柿の種は芽を出し、いま10pほどに成長しています。
いよいよ、当センターも自給自足ができるように準備に入っています。

2009年11月22日

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 38

 先日の”リクエスト・ーツアー”が終わった後、私は能登町宇出津にある「間脇遺跡縄文館」に行ってきました。今回で2回目です。丁度神戸を出発した12日の北国新聞を駅で買い、読んでいたらこの遺跡の関連記事が載っていたのですが、その催しが11月21日から23日にあることはその記事には書かれてなかったので詳細が理解できていませんでした。その催しというのは、縄文時代末期の遺跡として発見された「環状木柱列」を復元するために、6000年前と同じように「クリの木」を使って復元しようというものです。それで、21日〜23日はクリの木の皮むきをするそうです。クリの木は直径60p、長さ9mのもので、道具はクリの木の枝を使ってするそうです。おそらく可能なかぎり当時の作業と同じ工程をされるのでしょう。そういえば、いま8月に水害に見舞われた兵庫県佐用町で竹炭を焼いていますが、竹を伐採して枝を払うときに、ナタを使わなくても切った竹の細い部分を使って払えば、枝は綺麗に落ちるのです。私も神戸のある物知りに教わり、何年かぶりにやってみましたが気持ちがいいほど枝が落ちていきます。きっとクリの皮むきも同じような作業だろうと想像します。

 それにしてもクリの木というのは、6000年も経っているのに完全に朽ちないというのは驚きです。この縄文館では「環状木柱列」の他、いくつか当時の使用されたクリの木が展示されていますが、6000年前のまま残っているのが神秘的なまですばらしいものです。2年前に当センターの庭にも、高さ50pほどのクリの木がたくさんあります。これはドングリの実を植え芽を出させ、2年間かけて育てたものです。ほんまもんの垣根をつくろうとチャレンジしているものです。

 クリの木は堅いので、加工しにくいために大工さんが嫌がり、だんだん木の種類が変わってきたのかも知れません。昨日の大崎さんのレポートには触れませんでしたが、輪島漆器の特徴は、この地で育つカシの木やアテの木のように堅牢なのが特徴だそうです。つい最近までは能登の地域でも、山の管理は持ち主が丁寧にやっておられたという話を聞きました。自分の山で育った木を家の普請で使う材料であったり、間引いた間伐材は焚き物のエネルギーであったり、またよい木材は輪島漆器の生地になったり、まさしく暮らしと直結して山という存在があったのだと
あらためて痛感します。

2009年11月21日

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 37

先日のツアーで、写真集でも紹介している「大崎漆器店」にもお伺いしました。能登半島地震で大きな被害に遭いましたが、やっと「塗師屋 大崎庄右ェ門」が再建され、蘇りました。念願だったギャラリーも拭き漆による素晴らしく快適で美しい空間として完成されました。塗師屋の家は「住前職後」といい、前部が住まい、奧が仕事場となっています。くぐり戸の玄関から奧へと90bもの長さですが、わずかな塵や埃にも気を使う構造です。奧には、前、中央、後と三棟の土蔵があり、その中央の土蔵では黙々とした塗りの作業が行われています。もちろん土蔵は漆器にとって”いのち”であると言われており、大崎さんは壊れた土蔵を修復するために昔ながらの竹木舞を編んだ、厚さが20pもあるほどの土壁にしています。

大崎さんを訪ねますと、一部壁の姿がそのまま見えるようにしています(土蔵修復完成は、なんと2年3ヶ月後の2009年7月7日)。また、材料の漆は岩手県北部で真夏に採取されたもので、精製したあと、ワインセラーのように土蔵の中で十年以上寝かされ使用されるとのこと。「家の空気に充分馴染んだ漆は、まろやかな花塗り漆や朱合漆となり、静かに使われる時を待つのです。」とやさしく大崎さんは語ってくれました。まさに職住一体とはこういうことだと証明されています。

 こうして、仕事場の環境から材料まで先代から受け継いだ魂に届くように技術と智慧にこだわり続けるところから、「四代目 塗師屋 大崎庄右ェ門」の見事な作品が生まれます。大崎さんは、「漆器は飾っておくものではなく、暮らしの道具なんです。ほんとの食を楽しみ、味わう道具なのです。」と笑顔で語られます。
みなさん、是非一度「四代目 塗師屋 大崎庄右ェ門」さんのギャラリーを尋ねて下さい。

2009年11月18日

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 36

能登半島地震からの復興を祈念してのロングラン公演、シェークスピア原作『マクベス』は、去る15日で50日間の講演を終了されました。地元のみなさん、無名塾のみなさん、そして全国から来られた演劇ファンの方がた、ご苦労様でした。

12日の北国新聞を見るまで知らなかったのですが、エキストラに延べ2500人の地元の方が参加したようです。演劇や映画にはエキストラが必要なのでしょうが、こうして地元の人たちがたかがエキストラと言えども一緒になって作品を創り上げるというのは、すばらしいことだと思いました。きっとこういう空気の中から、復興支援という実感が沸いてくるのではないかと想像します。

さて、同紙によるとこの『マクベス』を上演した能登演劇堂は、1995年の阪神・淡路大震災の時にオープンしたそうです。何か縁を感じますね!それで、そもそもこの時の”こけら落とし”の舞台として『マクベス』が上演される予定だったそうです。ところが経済上の理由から残念せざるをえなくなり、15年ぶりの上演となったのです。マクベス夫人役を演じられた女優の若村麻由美さんにとっては15年越しの念願の公演だったようです。話題の舞台中央が観音開きになりその向こうにある自然を取り込んだ演出を考えると、すべての観客のみなさんは、世界でただ一つの『マクベス』を見たことになります。

2009年11月17日

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 35

神戸芝居カーニバルのメンバーと子どもと守る9条の会のメンバーと共に、能登ツアーに行って来ました。みなさんは、能登演劇堂で「マクベス」を観劇してその後穴水の来迎寺と輪島の大崎漆器店に行かれました。
814年に創建され、来迎寺の前身「勅定山 青竜寺」と命名されてから数えると1200年にもなる、まさに古刹にふさわしいお寺に、みなさま感動してくれました。私がお願いして、数えで92才の住職に、「太鼓をうちなが、般若心経を一巻お願いできませんか?」とお願いし、みなさんと太鼓の伴奏つき般若心経を唱えさせて頂きました。住職曰く、「こうして太鼓を打てるのは、いまでは数少なくなったでしょう。」とのこと。帰り際に、庭に咲いている古木イチョウの木から落ちた銀杏の実を頂いて帰りました。来迎寺ではこの季節になると毎朝イチョウの落ち葉の掃除と銀杏の皮むき、そしてカキをつるして干し柿づくりという毎日が続きます。またこの時期にはキノコ採りも盛んになり、山菜の珍味にキノコ料理が出されます。
来迎寺さんを後にして、次は輪島市の大崎漆器店を尋ねました。ここでの話は次回にします。

そして神戸のご一行さんは、この日の夜は輪島市河井町で営業されている民宿旅館「深三(ふかさん)」に宿泊され、まさに”至福のとき”を過ごされました。若いご夫婦で経営されていらっしゃいますが、料理はもちろん漆器を中心にした器、そして旅館内のこだわりなどすべてが細やかな心遣いをしておられ、素晴らしい”輪島のお宿”です。是非みなさま、能登に行かれましたらこの「深三」をご利用下さいませ。
*深三:0768−22−9933です。

2009年11月12日

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 34

写真集「いとしの能登」を発刊した後に、このブログで「オンデマンドの能登ツアーしませんか?」と呼びかけたことがあるのですが、覚えて頂いているでしょうか。この呼びかけに応じて下さった神戸などに住む能登ファンの方々10名が、今日12日から14日まで能登・金沢方面にミニツアーに行かれます。実はこの呼びかけに応えて下さったのはこの一グループだけでした。この方々は「ほんまもんの文化」を追求している方々で、今回はまず能登中島の゛能登演劇堂゛で上演される「マクベス」をゆっくり観劇され、その後は古刹来迎寺を訪問、玄人好みの「能登中居鋳物館」で歴史を学び、昔ながらの街並みが少しだけ残っている中居の集落を見て、輪島市に移動して4代目が当主の「大崎漆器店」を訪問し、漆器の文化についてお話を聴き、夜は輪島の海岸近くにある「民宿深三」に宿泊し、海の幸、山の幸というご馳走を頂き、この上ない゛至福のとき゛を過ごします。どれだけこの旅が至福なのかは、帰神したら書きますので楽しみにしておいて下さい。

゛能登演劇堂゛で上演される「マクベス」については、下記URLをご覧下さい。
http://www.engekido.com/top.html

2009年10月18日

兵庫県西部地域の水害に関連して(第18報)

あの水害から2ヶ月あまりが過ぎました。宍粟市も朝来町も佐用町も、被災者と住民のみなさまは復興に向けて懸命に取り組んでおられます。現地の社会福祉協議会に事務局を置く「きらめき復興支援センター」も、10月11日に水害後初めての大規模な復興支援バザーを開催し、多くの企業や関係者のご協力の下成功裡に終わったという報告がありました。また、その前後も毎週のように、合併前の各地域でのバザーや復興市が開催されており、今日も久崎地区で「ほっと一息つきましょう 久崎元気村」というイベントが行われました。これには名古屋のレスキューストックヤードさんのご尽力でせとものが寄贈され大変被災者に喜ばれたというお礼の電話が早速入ったほど、超人気だったようです。

また、地域によっては「15年前の阪神・淡路大震災でお世話になった!」ということで、新鮮な野菜市を神戸で開催するという交流をされているところもあります。さらに、阪神・淡路大震災の時に、子どもにお絵かきの機会を提供し心のケアーに活躍した方が、佐用町に「出張アトリエ」を開くということもされます。
久崎の元気村祭りは、同じ佐用町内の被害の少なかった旧三日月町の方々が、「ほっと一息つきましょう!」と開かれた催しです。こうして、被災地佐用はお互いが励まし、支えあいながら一歩一歩再建に向かっています。地震に見舞われた阪神・淡路大震災の地域との交流も活発に展開されています。

一方、まだまだ課題も残っています。特に水害の根本的な原因である山林や河川の整備という大事業もこれからです。
私たちは大きなことはできません。でも小さな力を合わせて、コツコツと小さなことの積み重ねはできます。これまでも全国の多くの方々に支えられ、タオルを提供して頂いたり、床下に入れる炭を提供して頂いたりして、被災地に寄り添って来ました。これからも無理をせず、被災者と共に復興の道のりを歩んでいきたいと考えています。

残念ながら、もうほとんど兵庫県西北部地域の水害のことは忘れられています。被災地では、まだ浸水した床下を乾かすために、床板をはがしたままの姿が痛々しく目に入ります。被災者自身が、もう水害のことを忘れてホッとすることができるまでにはまだ時間が必要です。みなさま、もうしばらくご支援の程よろしくお願い致します。

なお今後は、これまで発信してきました「兵庫西部地域の水害に関連して」という被災地レポートは、「佐用を支援する炭プロジェクト」実行委員会(仮称)からのレポートに掲載させて頂く形で送るようにさせて頂きます。同プロジェクトには、このレポートを送り続けてきた被災地NGO恊働センターと震災がつなぐ全国ネットワークも、参画あるいは協力団体として一緒に被災地支援活動を続けています。2ヶ月余りにわたって、このレポートを受け止めて下さりありがとうございました。
 *「佐用を支援する炭プロジェクト」実行委員会(仮称)の事務局はNVNAD(日本災害救援ボランティアネットワーク)が担われます。