2009年10月18日

兵庫県西部地域の水害に関連して(第18報)

あの水害から2ヶ月あまりが過ぎました。宍粟市も朝来町も佐用町も、被災者と住民のみなさまは復興に向けて懸命に取り組んでおられます。現地の社会福祉協議会に事務局を置く「きらめき復興支援センター」も、10月11日に水害後初めての大規模な復興支援バザーを開催し、多くの企業や関係者のご協力の下成功裡に終わったという報告がありました。また、その前後も毎週のように、合併前の各地域でのバザーや復興市が開催されており、今日も久崎地区で「ほっと一息つきましょう 久崎元気村」というイベントが行われました。これには名古屋のレスキューストックヤードさんのご尽力でせとものが寄贈され大変被災者に喜ばれたというお礼の電話が早速入ったほど、超人気だったようです。

また、地域によっては「15年前の阪神・淡路大震災でお世話になった!」ということで、新鮮な野菜市を神戸で開催するという交流をされているところもあります。さらに、阪神・淡路大震災の時に、子どもにお絵かきの機会を提供し心のケアーに活躍した方が、佐用町に「出張アトリエ」を開くということもされます。
久崎の元気村祭りは、同じ佐用町内の被害の少なかった旧三日月町の方々が、「ほっと一息つきましょう!」と開かれた催しです。こうして、被災地佐用はお互いが励まし、支えあいながら一歩一歩再建に向かっています。地震に見舞われた阪神・淡路大震災の地域との交流も活発に展開されています。

一方、まだまだ課題も残っています。特に水害の根本的な原因である山林や河川の整備という大事業もこれからです。
私たちは大きなことはできません。でも小さな力を合わせて、コツコツと小さなことの積み重ねはできます。これまでも全国の多くの方々に支えられ、タオルを提供して頂いたり、床下に入れる炭を提供して頂いたりして、被災地に寄り添って来ました。これからも無理をせず、被災者と共に復興の道のりを歩んでいきたいと考えています。

残念ながら、もうほとんど兵庫県西北部地域の水害のことは忘れられています。被災地では、まだ浸水した床下を乾かすために、床板をはがしたままの姿が痛々しく目に入ります。被災者自身が、もう水害のことを忘れてホッとすることができるまでにはまだ時間が必要です。みなさま、もうしばらくご支援の程よろしくお願い致します。

なお今後は、これまで発信してきました「兵庫西部地域の水害に関連して」という被災地レポートは、「佐用を支援する炭プロジェクト」実行委員会(仮称)からのレポートに掲載させて頂く形で送るようにさせて頂きます。同プロジェクトには、このレポートを送り続けてきた被災地NGO恊働センターと震災がつなぐ全国ネットワークも、参画あるいは協力団体として一緒に被災地支援活動を続けています。2ヶ月余りにわたって、このレポートを受け止めて下さりありがとうございました。
 *「佐用を支援する炭プロジェクト」実行委員会(仮称)の事務局はNVNAD(日本災害救援ボランティアネットワーク)が担われます。

2009年10月04日

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 33

能登半島地震から2年と6ヵ月、地震復興願うイベントが開かれた。10月3日、輪島市にある有名な「千枚田」という棚田に、復興を願って3万本のローソクが灯された。また同じく10月3日、前号で報告したように、全壊の寺から再建が現実となり、やっと「能登半島地震被災・法輪山興禅寺再建ご報告並びに落慶法要」が催された。この寺は、曹洞宗総持寺末寺である。いまではこうした末寺は数少ない。艱難辛苦を乗り越え、再建を果たしたこの寺の名は永遠に人びとに語り継がれるだろう。法要の読経の後、市堀住職は挨拶をしなかった。前もって司会者の人に「泣き出すから代わりに読んでくれ」と頼んでいたようだ。

「托鉢は僧侶の本願だ!」と、全壊の寺には山門と賽銭箱を残して托鉢に出られた。2年半だ。賽銭箱には「再生」と書かれ、寺の掲示板には「遠いから歩く」と書かれていたことを思い出す。托鉢の間、口に出すのも憚るような言葉も投げられたと聞く。そして数え切れない人とまた出会った。住職は「地震のおかげ」という。この多くの縁をいつまでも大切にしてきた営みが、再生を確かなものにしてきたのでしょう。いつまでも「地震」のことを忘れない。またこの縁を通して、自分と向き合うことから逃げてはいけない。市堀住職は「来た道への感謝と、これから歩む道への祈りの場にしてほしいんです。」と言われたことがある。今日、無事落慶法要を迎えた寺の掲示板には「縁を生きる」と書かれてあった。

2009年09月30日

兵庫県西部地域の水害に関連して(第17報)

 前号(16号)で、佐用町での足湯ボランティアについてレポートしました。今号も、同じ足湯の話題ですが、被災者の会話から水害で恐ろしい目にあった犬の話です。足湯に来られた被災者の指に血が付いていたので、ボランティアの彼女が「どうしたんですか、これ?」って聞いたら、「犬に噛まれたの!」という訳です。もう少し事情を突っ込んで聞いてみると、こんな会話になりました。

「今日雨だから、、雨降ったら、犬が吠えて怖がるんです」
「犬も怖かったんやと思います」
「そう言えば、〜さんとこの犬、、死んだみたい」
「そうそう、犬がプカプカ浮いてた、あん時」
「〜さんとこの犬、、いつも朝、散歩させてたのに、最近見ないけども、、もしかしたら死んだん違うかなぁ、、でも本人に聞かれよ。そんなこと聞かれんよ」
「かわいそうになぁ、、あん時、いっぱい犬や猫も死んだんよ。。。」

それを聞いていた隣で足湯をされていた被災者も、
「そうそう、、うちとこの猫もねぇ、棚と棚の隙間からでてこんようになってしまって、、ずっとキャットフードも食べてなかったけども、ここようやく2週間ぐらい前くらいからちょっとづつ食べるようになったんよ、抱いてやると外の様子もチラッと見るだけで顔を私の胸にうずめている。離してやっても初めはぐるぐるして廻っているだけ、ウロウロしてもちょっとだけ」
「そうなん、犬も猫も、人間と一緒、、怖いんよ、水が、、そりゃあ、、あんなに水が来たら、、ねぇ、、、」

それを聞いた彼女は、、
「うん、うん、、だからうちとこの犬も、、怖いから、、噛んだんやね、私の手」

ということです。実は、これと似たお話は以前宮崎に水害があったときにも聞いたことがあります。水害で取り残された犬が、何時間も郵便受けの上に乗っかっていて、助かったのですがやはり雨が降ると震えているそうです。今の犬は野生化していないからか、”犬かき”が出来ないから、こういうときに泳げないそうです。
災害時のことを考えると、別の意味でペット対策を考えていなければならないということです。

2009年09月29日

兵庫県西部地域の水害に関連して(第16報)

 兵庫県西北部水害以来、比較的早い時期から避難所であった町営「笹ヶ丘荘」に、足湯ボランティアを派遣してきました。次の10月3日〜5日も佐用町で足湯を展開します。この内、5日の足湯ボランティア活動は、「平成21年台風9号災害による災害時要援護者に掛かる被災状況ヒアリング訪問調査」の対象となりました。足湯で集める被災者の生の声には、もちろん「災害時要援護者」の声も少なくない。この足湯で集める声をもとに、行政が丁寧に一人ひとりの被災者に向き合えば、被災者にとっての暮らし再建の道筋もより現実的に見えてくるだろうと思われます。そう言う意味では、行政は災害後の相談業務と平行してこの足湯ボランティア活動をもっと積極的に取り入れるべきだと提案させて頂きたい。

 ところで先日9月中旬の足湯では、佐用駅前の佐用郵便局が足湯の場を提供してくれたのです。郵便局で足湯をしたことは、一度もいままでにはなかったことだけに、大変嬉しかったし、またどんな結果になるのか興味深いものがありました。局長さんは「町の人がこんな風に集まることがいいと思う。普段は自分の家のことをしていてなかなか顔を合わせないし、是非これからも足湯をしに来て下さい。」と喜んでおられ、是非ともまた!とお願いされました。地域での郵便局は、ほぼ誰もが知っており、また郵便局側の人も場合によっては地域に住む人のことはよく知っておられる。実はこの郵便局も床上浸水の被害を受けているが、痛みの共有をしつつ、お互い様の精神で支えあいの場を提供したことになるようです。そういえば、この前足湯ボランティアに初めて参加された女性がこんなことを言っていました。
「(この活動は)被災者の方のニーズや思いを聞き取るだけではなく、地域の方たちが足湯の場に集まり、その場を借りて、近況などを伝え合っている。井戸端会議のようなものだ。ここへ来てはじめて聞く話もある。」こうしてお互いが創り出す関係性によって支えられるとすれば、相互に被災者同士で足湯をすればどうなるでしょう?また”足湯井戸端会議”に、専門家が同席していれば、場合によってはその場がそのまま暮らし再建のための生活相談会にならないでしょうか?

 先日の足湯の場では、70歳のお母さんが、若い娘さんに「フローリング(床の種類)の掃除の仕方教えてあげるわ!最初にサンドペーパーでフローリングを磨いてから板と板の間の黒カビになった部分に、タオルをくくりつけたお箸を使って、フローリングの溝にあてギュッギュッと上から押しつけながら拭くんよ!」と教えてあげている姿がありました。実は、こういう風に暮らしの相談会が始まっているのです。そもそも井戸端会議ってそういうものですよね!

 余談ですが、佐用郵便局で足湯ができるようになったのは、日本防災士機構の方たちが佐用訪問に来たときに、お願いしてくれた結果です。全国の郵便局が災害後こうした活躍をしてくれたら、かなりありがたいのですがね!?
 実は、この防災士機構も、暮らし相談のための井戸端会議も、阪神・淡路大震災からの教訓として提案されて形になったものなのです。

2009年09月28日

兵庫県西部地域の水害に関連して(第15報)

 先日25日、兵庫県が「県西北部の豪雨水害の被災者が身を寄せていた避難所が20日に解消された。」との発表がありました。最後の2世帯6人が町営住宅への入居を希望しているそうですが、避難所解消期限の都合なのか、入居が可能になるまでいま避難している町営「笹ヶ丘荘」に住むことになるようです。でも、県は「笹ヶ丘荘を町営住宅とみなすことにした。」という判断のようです。災害の規模にもよりますが、これからも避難所の期限が終わっても、こうして旅館や企業の社員住宅などもその後の住宅として認知することで、(すべての被災者に通用しませんが)被災者の気持ちが前向きになるかも知れません。
ただ一方で気がかりなのは、笹ヶ丘荘は宿泊料を無料にしてくれたけれど、法的には町営住宅扱いということは、それまでの避難所と違って家賃はじめ諸々の出費が発生するということではないかということです。仮設住宅を選択しない代替の選択としての町営住宅であれば、一定の期間は少なくとも仮設住宅と同じ条件にすれば負担が軽くて済むわけですが・・・・。

 こうして、阪神・淡路大震災での教訓でもある被災後の住まいの再建については、できるだけ選択の幅を増やすということが必要だとこれまでの検証でも認められています。不幸にも災害で持ち家がなくなったとしても、少しづつ努力することによってまた自力で再建できれば感慨もひとしおではないかと思います。2006年のインドネシヤ・ジャワ中部地震のあと、増殖型住宅再建という方法が注目されたのですが、財政事情をはじめ一人ひとりの被災者の事情に合わせて住宅を増やしていく(増殖させていく)というこの手法は、苦しいけれども被災者に希望をもたらすのではないかと思われます。住宅再建にあわせて、生活再建のメニューも多彩になると再建途上において、もっと理想的な「暮らしのデザイン」が描けるのではないかと期待します。

いろいろ難しい条件もあるでしょうが、その多彩なメニューの中に是非こんな選択肢もあっていいのではないかと思われることに気づいたので紹介します。これは、元兵庫県知事であった貝原俊民氏が、阪神・淡路大震災を振り返って書かれた『兵庫県知事の阪神・淡路大震災−15年の記録ー』(貝原俊民著、丸善株式会社平成21年9月1日発行)に紹介されていることです。結果的に貝原氏はこれを採用しなかったが、こういう提案がきっかけになって選択肢が多彩になればいいのではと思います。その内容というのは、「一部の有識者からは、入居者が高齢者なのだから建築基準を緩和して、耐用年数20年くらいのローコスト住宅、いわば上質の仮設住宅を早期大量に建設してはどうかという提案がなされた。」というものです。ローコスト住宅といっても、例えば通常の半分のコストでできるのかどうかは判りませんが、現在では一般の市場にも積極的に参入してきているNPOで運営する建築業のグループなどにお願いすれば、災害に強く、それでいて耐用年数も20年どころではなくそれ以上の良質の住まいを建設できる可能性はあると思われます。NPOは良心的なので、何よりも何でもかんでも新築という選択ではなく、補修再建とか選択肢は複数になることは考えられます。私たちNGOも、阪神・淡路大震災以後提言として「災害後の住宅再建の道筋においては、避難所→仮設住宅→公営住宅もしくは持ち家再建という単線型ではなく、多彩な選択肢のある複線型にすべきだ!」と言ってきました。いづれにしろ、一人ひとりに丁寧な対応をして頂きたいと切に願うものです。

ところで、また10月3日から5日まで佐用町で足湯ボランティアに行きます。大学生のみなさんで一度いって見たいなぁと思われる方は、是非ご一報を!
  (被災地NGO恊働センター 078−574−0701です。)

2009年09月25日

兵庫県西部地域の水害に関連して(第14報)

兵庫県西北部地域で水害被害のあった宍粟市、佐用町に復興支援センターが発足して、もう1ヶ月になろうとしています。この水害で行方不明のままになっているお二人の捜索も、まだコツコツと続けられている状態です。また、被災者にとっては暮らし再建に向けて一歩を踏みだした方も、また今も被災家屋と日々向き合うしかない方々もおられ、いつものこととはいえ災害からの復興の厳しさを突きつけられています。

そんな中で少しでもお役に立てればという願いを込めて、復興支援の一つとして佐用町および宍粟市への救援物資として名古屋から電化製品が送られました。冷蔵庫51台、テレビ67台、洗濯機25台、これから冬にかけて重宝されるハロゲンヒーター40台、石油ストーブ40台等4トントラック3台に満載でした。名古屋は2000年に東海水害を経験し、その関係者の支援の気持ちをレスキューストックヤードさんがお世話をして、リサイクル業者を介して届けられたものです。

また、地元のきらめき復興支援センター(佐用町)では、10月11日(日)下記のような内容で「佐用町復興支援バザー」を開催します。是非みなさん!新品に限らせて頂きますが、ご協力よろしくお願い致します。(バザーの件についての連絡先は、きらめき復興支援センター:0790-78-0830です。)

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台風9号災害復興支援
「佐用町復興支援バザー」の開催と物品提供のお願い

開催趣旨
8月9日に発生した台風9号の豪雨災害から1ヶ月余りが経過しました。被災地は、たくさんの救援ボランティアの活動により、復旧・救援活動から生活再建・復興支援の時期へと移行しており、仮設住宅への入居や早いお宅では新しい畳や家具が入り始めています。そのような中、高齢者世帯や身寄りのない被災世帯では、「畳があるだけで何となく落ち着く。なんとか家具も準備したけど、その中に入れる生活用品がない。」「これから秋から冬に向けて、暖かく暮らせる電化製品をどうして揃えたらいいのか。」と話されています。
佐用町役場では、大型の家具や家電製品等を集め、抽選受け渡しを行っていますが、収入が少ない年金生活者や大きな住宅ローンを抱えた世帯向けに、生活必需品や小型家電製品を中心に募集し、佐用町の被災者に安価で提供する「佐用町復興支援バザー」を開催します。是非とも、物品提供にご協力をお願いします。
なお、このバザーで集まった収益(定価の1〜2割程度で販売予定)は、被災者支援のための義援金として寄付します。

「佐用町復興支援バザー」開催期日・場所
開催期日 平成21年10月11日(日)
開催場所 南光生きがいドームと周辺(佐用町東徳久1946番地)

【物品提供の方法】
物品受付期間 10月1日(木)〜10月7日(水)
物品搬送方法 @ 佐用町社協 生きがいドームに直接持込む方法
A 佐用町社協(下記)に送付する方法
※いずれの場合も、送料については送付元負担でお願いします。

【提供頂きたい物品】小型家電、衣類、調理器具(食器類は除く)、寝具等
※すべて新品に限る。
・家電製品
 電気毛布、ファンヒーター、ストーブ、ハロゲンヒーター、こたつ、電気あんか、空気 清浄機、加湿機、電気カーペット、電気ポット、オーブントースター、ホットプレート、 電子レンジ、炊飯器、アイロン、掃除機、ドライヤー、など

・衣類・寝具
 セーター等冬物衣類、コート等冬用上着、冬物パジャマ、冬物靴下、スリッパ、サン ダル、など  ※子ども服含む
布団(掛け)、布団(敷き)、毛布、こたつ布団、冬物シーツ、など 

・ 調理器具
  なべ、土鍋、フライパン、など

主催  佐用町社会福祉協議会  きらめき復興支援センター
【物品の送付先/問い合わせ先】
〒679-5213 兵庫県佐用郡佐用町東徳久1946
TEL(0790)78−0830 FAX(0790)78−1700

2009年09月22日

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後31

久しぶりの能登レポートです。今日の話題は、「熊甲二十日祭」(通称「お熊甲祭」)で、実は写真集発行以来この祭りについては何度も紹介させて頂いています。
(写真集については、こちらをご覧下さい。
http://www.pure.ne.jp/~ngo/noto.html
今回のレポートは神戸から大学生や社会人、栃木・新潟・名古屋から足湯ボランティアなど災害救援ボランティア関係者総勢31名でこの祭りに参加してきたご報告です。
この祭りは、能登・七尾市中島町(旧熊木郷)で催されている「寄り合い祭り」で、毎年、曜日に関係なく収穫を喜び、豊作を神に感謝し、9月20日に行われますが、今年は日曜日とも重なったので大変な人手でした。熊木の名は、万葉集にも出て来るように熊甲社(後に久麻加夫都)の祭神が渡来系人格神であることで、高句麗(高麗・こま)よりの渡来人定住地、高麗来(こまき)というところからといわれています。そして境内には熊木薬師如来像を祀る薬師社があります。神仏混合の典型です。

会場となる中島町のあちらこちらで、寿命の短い彼岸花=曼珠沙華が精一杯花を咲かせている中、今日も早朝からこの祭りに欠かせない独特のリズムを持つ鉦と太鼓が鳴り響きました。1000年以上の悠久の時を刻む、この壮大な祭りは、いまも五穀豊穣を願って盛大に行われているのです。今年は19末社のうち17社から旗枠が出され、やはり少子高齢化の影響がもろにでており、神輿の担ぎ手が揃わず不参加を決めた集落も二つとなりました。そもそも今回の私たちの参加も、この現象を少しでも止める役割をできないだろうかと祭りの応援をしようと1年前から計画していたものです。
災害後の支援として、こうした被災地の祭りを支援することを通してその被災地をより理解するということが狙いでもありました。加勢に行ったのは19社の一つ小牧白山社を末社にする小牧地区です。小牧の窓口になっている壮年団の方も県外からのこうした応援を盛り上げるために「最近では一歩踏み込んで、女性も担いでいるところがあるので、なんとか調整して見ます」と頑張って下さっていたのですが、やはり協議の結果”ダメ出し”が出て担ぎ手は男性ばかりになりました。

でも本来、女性は女性の役割があって、イイダコや里芋やこんにゃくなどを使って「祭りごっつお(ご馳走)」を造るのもこの地の習わしのようです。せっかく参加を希望して下さっている女性たちに申し訳ないということで、前日の早朝から浜でのイイダコ釣りをし、そのイイダコも使っての「ごっつお(ご馳走)」づくりを教えて貰うことになりました。
おかげさまで女性たちは大変喜んでいました。(*資料によると、男手のない戦時中、婦女子が大枠旗を担ぎ祭礼に参加したこともあるとのこと。)そして小牧白山神社の本殿で、女子は”どぼんこ”(旗枠の最も先端につける飾り)の修理や草鞋づくりや花笠の飾り付けなどを手伝い、また男女が20b〜23bもある枠旗を取り付ける長い杉の旗竿をタオルで拭きあげます。ちなみにこの旗竿は接いでない一本の木で造られています。

今年小牧地区は旗枠を2台出しましたが、昨年の小牧壮年団団長いわく、そのうち1台は5〜6年ぶりで、しかもこの枠旗に靡く深紅の枠旗は20数年ぶりとのこと。小牧の枠旗は゛無字゛にこだわっており、本社に20本の枠旗が並んだ中でもズシリと歴史の重みを感じさせてくれます。だからかも知れませんが、前日のこの作業は、ただ淡々と何度も何度も拭きあげる作業ですが、「今日まで何事もなく無事であったことへの感謝と明日は無事に事故も無く、頑張って下さい」と願いを込めての作業でジーンとくるものがありました。一台は5〜6年ぶりで、その間雨ざらしになっていたのでカビが生えている部分もあり、みんなで丁寧に拭き取る作業をさせて頂きました。こうした前日の作業も村の方たちと一緒に行うことで連帯感が生まれでしょう。しかし、不思議なことに私たち応援団はこの旗枠を担ぐのは初めてにもかかわらず、ほとんど練習もせずに本番に望みます。不安と緊張の中で本番を迎えることになりますが、さてどうなることやら?
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いよいよ本番です!早朝6時に穴水の宿を出発し、どこからともなく聞こえてくる鉦と太鼓の音色を聴きながら集合場所の小牧白山神社に向かいました。昔から゛瀬嵐(せらし)゛という漁師町の集落だけは神輿と旗枠を船に積んで来るそうです。これもなかなか情緒のあるものです。この1日が始まる直前の気持ちの高ぶりは何とも言い難い状態ですが、この緊張した時間が何とも言えないほどの心地よさがあります。まず地区に入ると、小牧地区の末社「小牧白山神社」に拝礼し、(担ぎ手だけですが)法被や地下足袋などを頂き、その後前日に加茂原に置いていた旗枠を組み立て、いよいよ本社(久麻加夫都阿良加志比古神社)に向かいます。

朝7時頃からの順次本社に宮入ですが、17の末社が繰り出す20本の旗枠がところ狭しとすべて本社に入り終わるのが午後12時半頃になりました。各隊列は、金幣、社名旗に続き、猿田彦神の実に見事な舞を先頭に、鉦と太鼓を従えて、総勢26人(旗枠を担ぐ約40名を除く)になり、その後列に神輿と旗枠が次々と宮入します。宮入の前に神社の正面の広場で各旗枠は「イヤサカサー」と「オイヤサー」のかけ声で盛り上げながら、少し゛暴れ゛て宮に入ります。9月6日「しらい」で宮入の順番が決められており今年は4番目と早い宮入のクジを引いたようです。午後から加茂原への渡御が始まり、お旅所加茂原に先頭の熊野社が入ったのが午後2時過ぎです。それから丁度最後の枠旗が入ろうとしたのが午後5時20分すぎです。毎年のことながら日没とともに、今日一日の神事と祀りごとがすべて終了します。夜明けとともに村中で鳴り響いていた鉦と太鼓の音は、神輿や解体した旗枠などを大型のトラックに積み込んだ後も、荷台の上から暗闇の中でいつまでも鳴り響いているのが印象的でした。加茂原はいつまでも余韻を残したまま静かに暮れて行きました。
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ちなみにこの時期に催されている豊作を祝う他の秋祭りは、6年ぶりに町内全地区からキリコが練り歩く珠洲市狼煙町の秋祭り、能登町小木の御船神社の大祭はじめ、穴水町前波の諸橋稲荷神社の秋祭りなどです。(能登には数え切れないほど祭りが各地で催されます。)

私たちはこの経験をもとに、もう一つの復興支援のあり方を探り、来年も是非とも参加したいと思います。小牧地区のみなさま、ほんとにありがとうございました。集落を歩いていると、出会う婆ちゃんたちが「人足ですか?有り難いことです。」と何度も頭を下げて迎えて下さったことが忘れられません。
それにしても、初めての参加で重さ1トンもある旗枠を無事担ぎこなした格好いい”人足”とそれを支えて下さった女性陣に拍手を送りたいと思います。ありがとうございました。

*しらい=祭りの行事が行われる前に、関係の責任者であるところの氏子総代・区長・壮年団長が集合して、祭りに関する役割や経費など一切のことを協議して、二十日当日の祭りが盛大無事に執行されるようにはかること。習礼が語源のよう。

「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 31

  久しぶりの能登レポートです。今日の話題は、「熊甲二十日」(通称「お熊甲祭」)で、実は写真集発行以来この祭りについては何度も紹介させて頂いています。今回のレポートは神戸から大学生や社会人、栃木・新潟・名古屋から足湯ボランティアなど災害救援ボランティア関係者総勢31名でこの祭りに参加してきたご報告です。この祭りは、能登・七尾市中島町(旧熊木郷)で催されている「寄り合い祭り」で、毎年、曜日に関係なく収穫を喜び、豊作を神に感謝し、9月20日に行われますが、今年は日曜日とも重なったので大変な人手でした。熊木の名は、万葉集にも出て来るように熊甲社(後に久麻加夫都)の祭神が渡来系人格神であることで、高句麗(高麗・こま)よりの渡来人定住地、高麗来(こまき)というところからといわれています。そして境内には熊木薬師如来像を祀る薬師社があります。神仏混合の典型です。

 会場となる中島町のあちらこちらで、寿命の短い彼岸花=曼珠沙華が精一杯花を咲かせている中、今日も早朝からこの祭りに欠かせない独特のリズムを持つ鉦と太鼓が鳴り響きました。1000年以上の悠久の時を刻む、この壮大な祭りは、いまも五穀豊穣を願って盛大に行われているのです。今年は19末社のうち17社から旗枠が出され、やはり少子高齢化の影響がもろにでており、神輿の担ぎ手が揃わず不参加を決めた集落も二つとなりました。そもそも今回の私たちの参加も、この現象を少しでも止める役割をできないだろうかと祭りの応援をしようと1年前から計画していたものです。災害後の支援として、こうした被災地の祭りを支援することを通してその被災地をより理解するということが狙いでもありました。加勢に行ったのは19社の一つ小牧白山社を末社にする小牧地区です。小牧の窓口になっている壮年団の方も県外からのこうした応援を盛り上げるために「最近では一歩踏み込んで、女性も担いでいるところがあるので、なんとか調整して見ます」と頑張って下さっていたのですが、やはり協議の結果”ダメ出し”が出て担ぎ手は男性ばかりになりました。

でも本来、女性は女性の役割があって、イイダコや里芋やこんにゃくなどを使って「祭りごっつお(ご馳走)」を造るのもこの地の習わしのようです。せっかく参加を希望して下さっている女性たちに申し訳ないということで、前日の早朝から浜でのイイダコ釣りをし、そのイイダコも使っての「ごっつお(ご馳走)」づくりを教えて貰うことになりました。おかげさまで女性たちは大変喜んでいました。(*資料によると、男手のない戦時中、婦女子が大枠旗を担ぎ祭礼に参加したこともあるとのこと。)そして小牧白山神社の本殿で、女子は”どぼんこ”(旗枠の最も先端につける飾り)の修理や草鞋づくりや花笠の飾り付けなどを手伝い、また男女が20b〜23bもある枠旗を取り付ける長い杉の旗竿をタオルで拭きあげます。ちなみにこの旗竿は接いでない一本の木で造られています。

今年小牧地区は旗枠を2台出しましたが、昨年の小牧壮年団団長いわく、そのうち1台は5〜6年ぶりで、しかもこの枠旗に靡く深紅の枠旗は20数年ぶりとのこと。小牧の枠旗は゛無字゛にこだわっており、本社に20本の枠旗が並んだ中でもズシリと歴史の重みを感じさせてくれます。だからかも知れませんが、前日のこの作業は、ただ淡々と何度も何度も拭きあげる作業ですが、「今日まで何事もなく無事であったことへの感
謝と明日は無事に事故も無く、頑張って下さい」と願いを込めての作業でジーンとくるものがありました。一台は5〜6年ぶりで、その間雨ざらしになっていたのでカビが生えている部分もあり、みんなで丁寧に拭き取る作業をさせて頂きました。こうした前日の作業も村の方たちと一緒に行うことで連帯感が生まれでしょう。しかし、不思議なことに私たち応援団はこの旗枠を担ぐのは初めてにもかかわらず、ほとんど練習もせずに本番に望みます。不安と緊張の中で本番を迎えることになりますが、さてどうなることやら?

 いよいよ本番です!早朝6時に穴水の宿を出発し、どこからともなく聞こえてくる鉦と太鼓の音色を聴きながら集合場所の小牧白山神社に向かいました。昔から゛瀬嵐(せらし)゛という漁師町の集落だけは神輿と旗枠を船に積んで来るそうです。これもなかなか情緒のあるものです。この1日が始まる直前の気持ちの高ぶりは何とも言い難い状態ですが、この緊張した時間が何とも言えないほどの心地よさがあります。ま
ず地区に入ると、小牧地区の末社「小牧白山神社」に拝礼し、(担ぎ手だけですが)法被や地下足袋などを頂き、その後前日に加茂原に置いていた旗枠を組み立て、いよいよ本社(久麻加夫都阿良加志比古神社)に向かいます。

朝7時頃からの順次本社に宮入ですが、17の末社が繰り出す20本の旗枠がところ狭しとすべて本社に入り終わるのが午後12時半頃になりました。各隊列は、金幣、社名旗に続き、猿田彦神の実に見事な舞を先頭に、鉦と太鼓を従えて、総勢26人(旗枠を担ぐ約40名を除く)になり、その後列に神輿と旗枠が次々と宮入します。宮入の前に神社の正面の広場で各旗枠は「イヤサカサー」と「オイヤサー」のかけ声で盛り上げながら、少し゛暴れ゛て宮に入ります。9月6日「しらい」で宮入の順番が決められており今年は4番目と早い宮入のクジを引いたようです。午後から加茂原への渡御が始まり、お旅所加茂原に先頭の熊野社が入ったのが午後2時過ぎです。それから丁度最後の枠旗が入ろうとしたのが午後5時20分すぎです。毎年のことながら日没とともに、今日一日の神事と祀りごとがすべて終了します。夜明けとともに村中で鳴り響いていた鉦と太鼓の音は、神輿や解体した旗枠などを大型のトラックに積み込んだ後も、荷台の上から暗闇の中でいつまでも鳴り響いているのが印象的でした。加茂原はいつまでも余韻を残したまま静かに暮れて行きました。

ちなみにこの時期に催されている豊作を祝う他の秋祭りは、6年ぶりに町内全地区からキリコが練り歩く珠洲市狼煙町の秋祭り、能登町小木の御船神社の大祭はじめ、穴水町前波の諸橋稲荷神社の秋祭りなどです。(能登には数え切れないほど祭りが各地で催されます。)

 私たちはこの経験をもとに、もう一つの復興支援のあり方を探り、来年も是非とも参加したいと思います。小牧地区のみなさま、ほんとにありがとうございました。集落を歩いていると、出会う婆ちゃんたちが「人足ですか?有り難いことです。」と何度も頭を下げて迎えて下さったことが忘れられません。それにしても、初めての参加で重さ1トンもある旗枠を無事担ぎこなした格好いい”人足”とそれを支えて下さった女性陣に拍手を送りたいと思います。ありがとうございました。

*しらい=祭りの行事が行われる前に、関係の責任者であるところの氏子総代・区長・壮年団長が集合して、祭りに関する役割や経費など一切のことを協議して、二十日当日の祭りが盛大無事に執行されるようにはかること。習礼が語源のよう。

2009年09月11日

兵庫県西部地域の水害に関連して(第13報)

 あれから1ヶ月が過ぎ、被災者にとっては復興への第1歩を踏むだしたいのは山々です。しかし、残念ながらいつものことでもありますが、地域内で被害家屋認定の格差が住民同士であらたな亀裂を起こしているという事態も表れているケースもあります。そんな中で自らの自宅も被害を受けているにもかかわらず、何とか地域をまとめようと東奔西走しておられる自治会長さんのお姿は、時には痛たましく映ります。

厳しいかも知れませんが、思い切ってお一人おひとりの被害状況にあった支援策はないものかと願うばかりです。国は10日、佐用町にも激甚災害指定を発表し、県は一方で法律相談から、行政相談会へと積み重ね被災者の不安を取り除くべく対応に懸命になっています。こういう厳しいときほど、自助・共助・公助の相互の支えあいが問われます。私たち救援ボランティアも、被災地が復興過程に移行する風を共有しつつも、場合によっては周回遅れの救援ボランティアもありとし、一方で復興ボランティアの第1歩を踏みだしています。

救援ボランティアから復興ボランティアへの移行に際して、絶妙の被災者支援プログラムとして、被災者宅の床下に炭を入れようという活動を始めています。全国から無償で炭を提供して頂き、炭の送料は日本財団と西濃運輸株式会社さんとでご負担を頂き、被災地まで炭を届けて頂いています。炭はすでに全国各地から集まり始めていますが、まだまだ足りません。是非、みなさまのお知り合いで炭を焼いている方がおられましたら、仲介に入って下さり炭の提供をお願いして下さい。(詳細は村井まで。090−3160−3816)

 さて、災害直後からみなさまにご支援いただいていましたタオルは、おかげさまでほぼ足りている状況にです。被災者のみなさんは大変喜んで下さいました。この場を借りてお礼を申し上げます。ほんとにありがとうございました。次は、「縁の下のお手伝い」として炭集めにご協力下さればご幸甚です。よろしくお願いします。
*被災地に炭を送る活動の詳細は・・・・http://ngokobe.seesaa.net/
*被災地に炭を送る活動の関連情報は・・・・http://www.voluntary.jp/weblog/myblog/544

2009年09月03日

兵庫県西部地域の水害に関連して(第12報)

 水害発生以来、ボランティアセンターとしての役割を担ってきた「佐用町災害ボランティアセンター」は閉鎖され、9月1日から「きらめき復興支援センター」の開設となり移行しました。これまでは、阪神・淡路大震災以後の数々の被災地で、どちらかというと災害後の緊急対応が終われば、サッサとボランティアセンターを閉めて事実上活動を終えるケースが少なくなかったのですが、こうしてスムーズに移行されるというケースは画期的なことではないかと思えます。発災から約1ヶ月弱で復興イメージを描いていくというのは、少なくとも阪神・淡路大震災でかかわったボランティアにはなかったことでしょう。
佐用町上月支所久崎地区の久崎小学校にボランティアセンターと地域対策本部を置いていましたが、ここも昨日1日を持って久崎老人福祉センターに移行したとのことです。

 もちろんまだまだ復興なんて考えられないという被災者もおられるでしょう。しかし一方で次なる段階に移行して行くという勇気ある判断も必要ではないかと思うのです。それだけに、まだ応急対応期としての対応が必要な被災者宅があることも気配りしながら被災地と向き合わなければならないと考えています。

足湯ボランティア活動はじめ、阪神・淡路大震災以降国内の被災地各地での経験がこの度の兵庫県西北部地域の被災地に生かされるように、実践を通して被災地の「声なき声」を発信し続けて行きます。これを読んで下さっている方で「何か、言ってくれれば手伝うよ!」という方がいらっしゃいましたら、是非声をかけて下さい。

 ところで、まだこんな非常識な方がおられるのかと悲しくなりました。あるところから、被災者宅に救援物資として畳が送られてきたそうです。
しかし、その畳は濡れていてカビが生えたものだったそうです。14年前の阪神・淡路大震災でも同じような話を聞きました。まだ、こんな方がいるのか?とため息がでます。
もちろん、一方で断水で困っているので水を提供して下さったり、タオルの呼びかけに応じて下さったりという人たちの方が多いのですよ!
ありがとうございます。
次なる支援の呼びかけをいま仕込んでいますので、乞うご期待!!